文化史をまとめて解説!旧石器~明治文化まで【中学歴史|高校入試】
更新日:2024/07/04中学校で勉強する社会の歴史的分野は暗記項目が多いです。特に文化史は通史と比べると触れられる機会や時間が少なく、苦手に感じてしまう人も多いのではないでしょうか。
歴史的分野で学ぶ、政治や権力の移り変わりと文化は切っても切り離せない関係。歴史の流れが分かっていれば文化史も覚えやすくなりますし、逆に文化を知っていることで「なぜこの出来事が起こったのか」の背景理解を助けることもあります。
今回は時代ごとの文化をまとめますが、その時代の権力者や出来事についても思い出しながら読んでみてください。
目次
文化史の覚え方
文化史に限らず、暗記は「繰り返し」が基本です。学校の授業や塾で勉強した後にしっかり復習をしてください。人の名前や作品名など、覚えることがたくさんあります。また、普段使わないような漢字を使うこともありますので、書いて練習することも大切です。
冒頭でもお話しした通り、歴史は本筋である政治と文化を切り離せません。各時代の出来事などを勉強した後にはしっかりと文化史を勉強する、両方合わせて復習する、という流れを作れるとよいですね。また、各時代のイメージと文化のイメージをつなげて覚えておくのもおすすめです。例えば鎌倉時代は初めて武士が時代の権力を得ました。そのため、文化も力強いイメージがあることが特徴です。
これらの「繰り返し」と「出来事やイメージとつなげて覚える」ことを意識して文化史を勉強していきましょう。
各時代の文化
文化名で分け、それぞれの文化についてまとめていきます。単語ではなく文で解説していますので、赤文字のキーワードだけでなく背景知識についても思い出しながら読み進めてください。
旧石器時代の文化
“文化”というよりは“生活様式”に近いかもしれません。
このころは狩猟や採集が生活の中心でした。今の日本列島も当時はユーラシア大陸とたびたび陸続きになったため、マンモスやナウマンゾウなどの大型動物が大陸と同じように住んでいました。これらの動物を追って来た人々は石を打ち砕いて作った打製石器を用いて狩りをしたり、植物を採集したりしました。今から約1万年前まではこのような生活が続いていました。この時代の様子をうかがいしることができる遺跡としては岩宿遺跡(群馬県)が有名です。
縄文文化(縄文時代)
このころもまだまだ生活様式のイメージに近いでしょう。
縄文時代には土器を作って木の実を食べるようにもなりました。縄目の文様をした(厚手でもろくて黒褐色の)縄文土器が使われるようになり、食材を調理したり保存したりすることをできるようになりました。また、打ち砕いていただけの石器は研磨された磨製石器も作られるようになりました。採集や狩猟が中心で移住生活を送っていましたが、徐々に集落を作って定住生活を営んでいたと考えられています。
住まいは竪穴住居が使われていました。地面に穴を掘り、そこに柱を立てて住居を作っていたんですね。また、人々が食べた貝殻やそのほかの不用品を捨てるための貝塚、祈りをささげるために作られた土偶もこの時代の特徴です。その他の風習として、成人の儀式である抜歯や死者の手足を折り曲げて埋葬する屈葬も見られました。この時代の様子をうかがいしることができる遺跡としては三内丸山遺跡(青森県)を覚えておきましょう。
弥生文化(弥生時代)
今まで基本的には採集や狩猟を行っていた人々が稲作を始めるようになったのはこの時代です。石包丁を使って稲の穂首を刈り、ねずみや湿気を防ぐため、高床倉庫で収穫した稲を保存しました。稲作が盛んになり、農業が発展すると社会関係にも変化が生じるようになりました。共同作業が必要になり、むらを従える有力者や多くのむらをまとめる王が現れました。そして、用水や交通路などをめぐって争いも起こるようになりました。この争いに勝利をおさめた地域集団は他の地域集団を支配して小国をつくるようになりました。
縄文時代に使われ始めた土器はより薄くてかたい赤褐色の弥生土器となっていきます。弥生土器は貯蔵用や食器用など実用に合わせて作られました。
また、金属器の使用も弥生文化の特徴です。青銅器は祭事に用いられ、鉄器は工具や武器として使われていました。この時代の様子をうかがいしることができる遺跡としては吉野ヶ里遺跡(佐賀県)を覚えておくようにしましょう。
古墳文化(古墳時代)
3世紀に強大な王と有力な豪族による大和政権が誕生し、5世紀にはその勢力を広げ、王は大王と呼ばれるようになりました。このころ権力者のお墓として作られたのが古墳です。仁徳天皇の墓とされる大仙古墳は有名な前方後円墳の1つです。前方後円墳のほかにも古墳にはいろいろな形があります。資料集などでみてみましょう。古墳の表面には埴輪が並べられていて、これにも家形や馬形などさまざまな形のものがありました。
また、古墳の埋葬品から当時の権力者の性格が分かります。初期は祭りの道具が多く埋葬されていることから権力者の宗教的性格を読み取ることができます。時代を経るにつれて、埋葬品は武器や馬具などが多くなりました。ここから権力者の軍事的性格を読み取ることができます。
朝鮮半島から日本に移り住んだ人々渡来人によって農耕技術や須恵器と呼ばれる土器が伝えられました。この時代、朝鮮半島は倭の同盟国であった百済が新羅や高句麗から圧迫を受けていて、百済が倭との関係を強化したいと思い、漢字や儒学、仏教などの大陸文化を日本に伝えたとされています。
このあたりから少しずつ、我々が想像している“文化”に近づいていきます。
飛鳥文化(飛鳥時代)
この時代は聖徳太子と結びつけて記憶している人が多いのではないでしょうか。
6世紀に伝わった仏教は、東アジア外交に必要な知識が含まれていて、上手に利用しようという思惑が働いたこともあり、聖徳太子(厩戸皇子)や蘇我氏は仏教を重んじていくようになりました(※ただ、この時代の仏教は呪術的なものととらえられ、教えはまだ十分に理解されていませんでした)。そのため文化にも仏教の色合いが濃く出ており、日本最初の仏教文化と言われています。仏教の影響を受け、有力者たちは権威の象徴として古墳にかえて寺を造るようになりました。聖徳太子が建立した法隆寺が有名です。法隆寺は世界最古の木造建築という点もおさえておきましょう。あわせて寺に安置されている仏像も覚えましょう。法隆寺釈迦三尊像や広隆寺弥勒菩薩像が代表的です。
ポイント
建築物や仏像の名前などが徐々に増えていきます。
資料集に写真が載っていたり、インターネットで検索すれば写真を見られたりするものがほとんどですので、文字情報だけでなく写真などでも見て覚えておくことで、より記憶を定着させやすくなります。
もし実際の建物の近くに行くチャンスがあれば、実際に足を運んでみるのもおすすめです。
天平文化(奈良時代)
時代名と文化名が異なるので注意が必要です。聖武天皇の頃に使用していた元号の「天平」を採って名づけられました。
奈良時代には遣唐使が派遣されており、当時の中国文化の影響を強く受けたのが天平文化です。当時の中国は、シルクロードなどを通して、西アジアやインドとの交流が盛んでした。そのため、天平文化は国際色豊かな文化と評されることも多いです。
天平文化も仏教に関連したものが多く見られます。8世紀前半に天然痘が大流行し、多くの人が亡くなったことを受け、聖武天皇は東大寺や大仏、国分寺・国分尼寺を造らせ、仏教の力を借りて国の不安から国を守ろうとました。大仏の造立には行基という僧が尽力しています。この僧は民間布教を行うと同時に、苦しむ民衆を救うため社会事業も指導していました。東大寺の正倉院も併せて覚えておきましょう。建築技法は、三角の木材を重ねた造りで、校倉造と言います。正倉院には天平文化の美術工芸品がおさめられていました。鳥毛立女屏風や琵琶を確認しておきましょう。また、唐から何度も遭難し失明しつつも日本にやってきた鑑真が唐招提寺を建立したことも忘れてはいけません。
天平文化ではいくつかの書物も誕生しました。
「古事記」「日本書紀」は日本の歴史書です。2つまとめて「記紀」と言われることもあります。古事記は、天皇家の正当性を国内にアピールするためにつくられ、天皇家の歴史について書かれています。日本書紀は、国外に向けて日本をアピールするためにつくられ、日本の歴史や朝鮮半島の出来事が年代順に漢文で書かれています。古事記、日本書紀は最後のキの漢字が異なりますので注意して覚えましょう。
そのほか各地域の歴史や文化などをまとめた「風土記」、多くの和歌をおさめた「万葉集」があります。
国風文化(平安時代)
こちらも時代名と文化名が異なりますので注意してください。唐風の文化を基にしながら、日本の風土や生活に合った文化が生まれました。
文化の担い手は貴族で、かな文字が誕生したことで女性による多くの仮名文学が生まれました。紫式部によって書かれた貴族社会についての物語である「源氏物語」、清少納言が自然や物事・宮中での出来事を記した随筆である「枕草子」は有名ですね。日本初の勅撰和歌集である「古今和歌集」は紀貫之によって編纂されたことを覚えておきましょう。また、紀貫之は女性が使う文字だったかな文字を使って「土佐日記」を書いています。こちらも関連させて覚えられるとよいですね。
貴族の邸宅である寝殿造は教科書で確認しておきましょう。
このころも仏教の文化は続いています。
貴族は、この世での幸福や社会の安定を願って、天台宗や真言宗の祈とうなどに頼るようになりました。また、疫病の流行や震災などにより、民衆に不安が広がったことから、死後の世界では極楽浄土に往生できるという浄土信仰が広がっていきました。藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂はこの浄土信仰に基づいて作られています。
鎌倉文化(鎌倉時代)
鎌倉時代は初めて武士が政権を取った時代ですね。文化の担い手が貴族だけでなく武士にも広まりました。その影響から、力強く・素朴な文化だと言われています。ポイントは、①公家の伝統文化の継承 ②武家文化の形成 ③禅宗の影響大の3点です。鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」は平家の繁栄と没落について描かれた軍記物語であり、琵琶法師によって語られました。そのほかの文学作品として、後鳥羽上皇の命で編纂された「新古今和歌集」、吉田兼好が書いた随筆「徒然草」、鴨長明が書いた随筆「方丈記」を覚えておきましょう。平家物語や徒然草は国語でも学ぶ機会があるかもしれませんね。古文と歴史は密接につながっていますので、古文の時間にも歴史を思い出しながらつながりを意識してみるとよいですよ。
また、新しい仏教が広まったことも鎌倉文化の特徴です。源平の争乱やその被害の大きさへの反省から、仏教界にも新しい動きが生まれました。新しい仏教の内容は分かりやすく、実行しやすかったために民衆にまで普及しました。6つの仏教とそれぞれの開祖・宗祖を覚えておきましょう。
念仏…「南無阿弥陀仏」と仏様の名前を唱える
題目…「南無妙法蓮華経」とお経の名前を唱える ※南無=信仰すること
浄土宗・浄土真宗・時宗は平安時代に広まった浄土信仰を受け継いだ仏教です。時宗の開祖である一遍は踊りを取り入れたり、念仏札を配ったりして教えを広めています(踊念仏)。日蓮宗は法華経(妙法蓮華経)をとても大切にしており、臨済宗・曹洞宗は座禅を重んじています。特に、禅が武士の気風に合っていたことや、禅が国の保護につながるという臨済宗の教えが受け入れられ、禅宗(臨済宗)は鎌倉幕府や室町幕府から保護を受けることになりました。また、栄西は茶を日本に伝えた人物としても有名です。
源平合戦で焼失した東大寺南大門は、重源によりこの時代に再建されました。ここには、力強さを代表する作品である、運慶・快慶によりつくられた金剛力士像があります。
北山文化(室町時代)
室町時代には2つの文化があります。北山文化は室町幕府3代将軍足利義満の時代の文化です。義満は武家と公家両方の最高位に立った人物でもあり、それが文化にも影響しています。北山文化は、公家文化と禅宗の影響を受けた武家文化が融合した華やかな文化でした。華やかさを代表する建築物としては鹿苑寺金閣が有名ですね。第1層が寝殿造、第2層が寝殿造と書院造、一番上の第3層が禅宗様になっている点が文化の特色をよく示しており、義満の権力を象徴しています。
芸能については、観阿弥・世阿弥の親子が幕府の保護を受けて、猿楽や田楽に他の芸能の要素を取り入れて、能を大成させました。また、能の合間に演じられた狂言もこの時代に生まれた芸能です。
東山文化(室町時代)
室町時代の2つ目、室町幕府8代将軍である足利義政の時代の文化です。こちらは北山文化と打って変わって簡素な文化と言われています。現代の日本文化にも通ずるわび・さびを大切にした文化です。
義政が建てた慈照寺銀閣が有名な建築物です。こちらも金閣と併せて資料集などで確認しておきましょう。銀閣には和室のもとになった書院造が用いられていることもポイントです。また、足利義政は河原者と呼ばれる人たちを重用しました。彼らの持つ優れた技術を生かし、禅寺の庭園の中には水を使わず山水の風景を表現する枯山水が造られるようになりました。その中でも龍安寺石庭は有名です。
禅宗の僧である雪舟は、墨一色で自然を表現する水墨画を大成させ、水墨画を禅という宗教の枠を超え、一つの芸術の域にまで高めました。
そのほか、民衆の間で広まった御伽草子や数人で和歌を詠む連歌、茶の湯などもこのころの文化です。連歌の会や茶の湯では、貴族・武士・僧が集まり、それぞれの文化が混じり合う場ともなりました。
桃山文化(安土桃山時代)
文化の中心は大名や力をつけた商人たちでした。富のある権力者が文化の中心となったため、豪華で雄大な文化とされています。大きな天守閣を持つ城が建造されたのもこのころで、安土城、姫路城、大阪城はその代表格です。壮大な城の内部のふすまや屏風、天井に金銀あざやかな色を使った濃絵が描かれました。室町幕府の御用絵師になったことにより始まった狩野派の狩野永徳による「唐獅子図屏風」は写真でも確認しましょう。
この文化で忘れてはいけないのは千利休による茶の湯の大成です。茶の文化自体は既にありましたが、現代に続く茶道の礎を築き上げました。そのほか、民衆の間では出雲阿国という女性が始めたかぶき踊りや三味線を使って物語る浄瑠璃などが広まりました。このあと歌舞伎は、風紀を取り乱すという理由から取り締まりを受けるようになり、次第に男性が演じるようになっていきました。
朝鮮などとの貿易から木綿が多く輸入されるようになり、この時代になると保温性や吸水性などに優れていることから、衣服では木綿が使用されることが一般化し始めていきました。
また、織田信長がキリスト教を保護するなど、仏教の力が抑えられた時代でもあるので、今までの文化と異なり仏教の影響が薄い文化であることも特徴です。ポルトガル人やスペイン人といったヨーロッパ人が多く来航し、パン・カステラ・カルタなどをもたらしました。また、新しい学問や技術も伝えられ、「平家物語」などの日本の書物がローマ字で印刷されました。このようにヨーロッパの影響を受けて成立した芸術などを南蛮文化といいます。
元禄文化(江戸時代)
江戸時代の文化1つ目は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の元禄時代(17世紀末~18世紀初め)に栄えた文化です。江戸時代の文化のポイントはその中心地と担い手です。元禄文化の中心は上方(大阪や京都)で、武士や経済力をつけた新興の町人が担い手になりました。
ここからは特に作品と人物をセットで覚えることが多くなっていきます。庶民の間では現世的な内容の小説である浮世草子が広がりました。その中でも井原西鶴はベストセラー作家になっています。同じく文学では俳諧も盛んな時代です。国語でも触れることがあるでしょう、松尾芭蕉の「奥の細道」はこの時代の作品です。安土桃山時代に広まった浄瑠璃ですが、この時代には人形浄瑠璃が盛んになりました。その脚本家としておさえておきたいのは近松門左衛門です。作品としては「曽根崎心中」などの心中物が有名ですね。
芸能では、歌舞伎が庶民の演劇として発展し、上方に坂田藤十郎、江戸に市川團十郎などの人気役者が生まれました。
次に、美術作品についてみていきます。屏風などに描かれた装飾画では、「風神雷神図屏風」で知られる俵屋宗達(※厳密には、徳川家光が将軍職に就いていた寛永期の人物)、その影響を受けた尾形光琳を覚えておきましょう。尾形光琳の作品としては「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」「八橋蒔絵螺鈿硯箱」などが有名です。資料集なども併せて確認してください。「見返り美人図」を描いたことで有名な菱川師宣は、庶民の生活などを描いて活躍したことから浮世絵の祖といわれています。
幕藩体制が安定し、儒学など学問全般が重視されたこともあり、この時代には日本の古典に関する研究が進み、日本の歴史への関心も高まりました。水戸藩では、藩主の徳川光圀により、尊王を目的とする「大日本史」の編纂も始められました。また独自の農学・数学・天文学も発達しました。
化政文化(江戸時代)
江戸時代の文化2つ目は、江戸幕府11代将軍徳川家斉の治世(寛政の改革後~天保の改革開始期)の文化・文政時代の頃の文化です。こちらの文化の中心は江戸で、担い手は庶民にまで広がりました。幕府の財政悪化や幕藩体制の動揺など先行きの不安を感じる中の文化だったためか、風刺・皮肉が好まれました。
貸本屋が増加し、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」などが多くの人に読まれました。小説などの文学は、タイトルや作者を丸暗記しようとしても覚えにくいものです。どのようなストーリーの小説なのか、調べてみるとよいでしょう。元禄文化に続き、化政文化でも俳諧は盛んです。著名な作者として与謝蕪村、小林一茶を覚えておきましょう。
続いて美術です。浮世絵の中でも、鈴木春信は錦絵と呼ばれる多色刷りの版画を始めました。版画のため、大量生産が可能で、庶民にも広まりました。女性の美しさをモチーフにした美人画(「ポッピンを吹く女」)を描いた喜多川歌麿や当時の歌舞伎役者などを描いた東洲斎写楽、風景画の「富嶽三十六景」を描いた葛飾北斎、「東海道五十三次」を描いた歌川広重が有名です。作者と作品、ジャンルをセットで覚えておきましょう。
蘭学が実学として発展していく中、外国船の来航が増えたこともあり、実測による日本地図を伊能忠敬が幕府の支援を受けて完成させたのもこの時代でした。
教科書では化政文化と同じページで紹介されることも多い以下の内容は、実は田沼意次や松平定信が政治の要職に就いていた宝暦・天明期の話題です。
本居宣長は古事記の研究を行い「古事記伝」を著し、日本古来の文化・文学を明らかにしようとする国学を大成させました。これは幕末の尊王攘夷運動に影響を与えました。また、杉田玄白はオランダ語で書かれた解剖書を翻訳し「解体新書」を作成しました。このようなオランダ語でヨーロッパを研究する学問を蘭学と呼びます。
最後は教育です。
諸藩では藩校が設置され、儒学や武術などを学ばせ、人材育成を図りました。民間では私塾を開き、儒学や蘭学を教えました。その中でも緒方洪庵の適塾やシーボルトの鳴滝塾は有名です。町や農村には多くの寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなど実用的な知識や技能を教えました。
明治文化(明治時代)
開国の影響を受け、西洋の文化が入ってきたのが明治時代。明治時代は西洋風の生活が取り入れられた文化となりました。これを文明開化といいます。都市部ではレンガ造りの建物やガス灯が造られ、洋服を着るようになりました。牛肉を食べる習慣が広がるなど、人々の生活がグッと現代に近づいているのが分かります。また、この時代に太陽暦が用いられるようになり、1年が365日、12か月に分ける、という基準に統一されたのです。活版印刷が普及し、新聞や雑誌も刊行されるようにもなりました。
文学としては優れた小説が多く生み出されました。書き言葉に話し言葉を取り入れた言文一致体を確立した二葉亭四迷による「浮雲」、女性作家である与謝野晶子の「みだれ髪」、樋口一葉の「たけくらべ」森鴎外の「舞姫」、夏目漱石の「坊ちゃん」「吾輩は猫である」などは覚えておきたいですね。
明治初期の学制の制定により、各地に小学校が設置されました。1907年には義務教育が6年間に変更され、小学校の就学率も97%に達しました。私立学校も設立されるようになり、福沢諭吉が慶應義塾(のち慶應義塾大学)、大隈重信が東京専門学校(のち早稲田大学)、津田梅子が女子英学塾(のち津田塾大学)を創設しました。このように教育が広がっていく中で、近代的な学問も発達していきました。医学分野では北里柴三郎が破傷風の血清療法を発見、野口英世は黄熱病の研究を行うなど、世界的に最先端の研究を行う科学者が現れました。
美術についてみていきましょう。欧米の文化を取り入れつつ、いかに新しい日本の文化を創り出すかという課題がありました。フェノロサは岡倉天心と協力して、日本の美術の復興を目指しました。また、日本画では「無我」という作品で有名な横山大観や彫刻の高村光雲らが近代日本美術を切り開きました。一方で、欧米美術も導入されました。フランスに留学し、印象派の影響を受けた黒田清輝の「湖畔」「読書」をおさえておきましょう。音楽で、滝廉太郎が「荒城の月」などを作曲したのもこの時代です。
文化史は背景と資料集を確認しながら覚えよう
旧石器時代から明治時代の文化までまとめてきました。特に美術や建築物については、“資料集や写真を確認しましょう”と書いています。歴史の出来事については実際に“見る”ことはできませんが、文化の場合は見ることができるものもありますよね。文化史の勉強は書いてあるものを読み、ただ問題を解くだけではなく、資料集やインターネットを駆使して写真を見て、寺院や城、美術館に訪れて自分の目で本物を見ることで覚えやすくなっていきます。
また、それと同時に時代の流れ、背景を知っておくことも大切です。こういう時代だから、こんな文化ができた、というストーリーで覚えておきましょう。
苦手に感じることの多い文化史だからこそ、得意分野にしてしまえば周りと差がつけられますよ!
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